第11章は『市場の見えざる手とホモ・エコノミクスの歴史』として、前章で見た経済学から倫理面が忘れられていく原因として『見えざる手』の解釈がアダム・スミスのものからマンデヴィルのものに変わったことで、市場万能主義の現在までつながっていくという話から、さらにケインズのアニマルスピリットもとりあげてホモ・エコノミクスという概念の検証をしていく。
アニマルスピリットとは何を意味するのか、ケインズは著書の中で3回使っただけなのだが解説書が山のようにあるらしい。語感からすると人間の中に眠る野生という感じだが、そう簡単でもないらしい。人間にとって何が自然かということを考察すると、いわゆる天然自然の中で動物のように暮らすことが動物にとっては自然なことなのだが、人間はそういう意味では不自然な存在だ。『人間は不自然でいることが自然な唯一の生き物』という定義をしている。C・S・ルイスの言葉を引用している『人々は儀式の礼服として裸を着ていると言って差し支えない』確かに裸になるという事は特別なタイミングである。以前ムーミンパパがパジャマを着ていたのに来客があると裸になるのはなぜかと思っていたが礼服だったんだ。アダムとイヴが楽園を追放されたときに最初に手に入れたのは衣服だったということも象徴的だ。
アニマルスピリットに戻ると、魂の不合理な部分という定義をしている。ヒュームの『理性は情念の奴隷』という言葉やクロード=アドリアン・エルヴェシウスの『情熱的であることをやめた瞬間に、人間はつまらないものになる』という言葉を引いて、感情や情念などがかなり強い力で人間を支配しているという。前の章のどこかに書かれていたが行動の源泉は情動で理性はあと付けで理屈を付けているのだ。
ここで人間の中途半端さが話題にされる。理性で合理的に行動しているようで、根っこにはアニマルスピリットがありそちらがホンネという状態はややこしい。ではどちらになればよいのか?人間は獣性を恐れている。悪魔はヤギと人間、吸血鬼も狼男も人間性が獣に支配されている状態の表れとなっている点をあげ、獣の部分に支配されることを恐れているとする。では合理性がよいのかというとそちらも恐れているという。純粋な合理的存在のロボットやA・Iなどに対する恐れは感情のないものに対する恐れだ。人間の中にある獣性と合理性のどちらの極端も恐れている『けして制御できない二つの力の間で宙ぶらりんになっている』どちらにしても共感できないものに対する恐怖があるのだろうとしている。
最後に夢について少しふれている。アニマルスピリットの定義の一部という事なのだと思う。夢としているが話の内容としては潜在意識のことも含まれている。こうなると普段自分たちが行なっている決定は突き詰めていくとどこから出てきたものかわからなくなりそうだ。『自分の夢を支配できる人は、きっと自分の現実も支配できるにちがいない』と書かれているが、アニマルスピリットを支配するという意味なのだろうか?それって悟り?人間はそれくらいあやふやな存在なのだろう。
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