キリスト教の次はデカルトをとり上げる。デカルトは世界の見かたを大きく変えるきっかけを作った哲学者だ。とはいえ、経済学的な見かたに対して疑問をぶつけている著者からすると、かなり手厳しい感じで書いている。デカルトが変えたのは人間存在の理解の仕方、機械論、決定論、など合理的な見かたをする方法を確立した。物質と精神の対比というような二元論もデカルトが復活させたことで、現実は数学的機械論で理解されることになった。それでは倫理的な面はなくなってしまう、神秘的な現実認識を取り去る事には役に立ったが一緒に人間も機械にされてしまった。世界を一つの法則で理解しようとしたことも、現代の経済学に影響を与えているという。
例の有名な『我思うゆえに我あり』についても批判的。『これのどこが「科学的証拠」なのだろうか』と書かれている。同じような批判はいろいろなところで読んでいたので、まぁそう来るだろうとは思っていた。ガリレオが言ったという『新しい(デカルトの)科学は、われわれの知覚を強姦した』という言葉を紹介している。『純粋な論理と合理性の抽出をめざした』はずが『論理的根拠のない観念や先入観がや自らが信じるイデオロギーの集合だったのは、逆説的と言わざるを得ない』何もかも疑ってこれだけは確かと思ったものが、自身の思い込みだったということだ。自身の信仰のせいで普遍性を欠いてしまったのか、そもそもこの方法自体が間違っていたのだろう。やっかいなのは一度現実を疑ってから現実を再認識しているだけなのに普遍性に到達したと思い込んでしまうことだ。その際に機械論的に理解しているので本質をとりこぼし、自身の持つ信仰やイデオロギーや偏見とすり替えている。『疑うべきはデカルトの疑いの完全性だということになる』
デカルトが人間を感情ではなく理性に還元したことにより、『個別性は消滅し』『普遍的な客観合理性に置き換えられた』『計算できないもの』は『錯覚にすぎない』という扱いになった。『数式に表せないものはあやしげな神秘の領域に属すとして軽蔑された』これによって『個人を孤立に導いた』という。社会的文脈が定義されていないので『合理性に仲間はいらない』ということになる。フッサールの言葉を紹介している『素朴な客観主義から超越論的な主観主義へと根本的な転換を遂げたのである』
デカルトは科学的知識を統合し、万人にとって議論の余地のない基礎を築こうとした。しかし、万人が客観的に同意できる視点の統一は現在もなされていない。機械論的なモデルをつくって説得力があるかを検証しているにすぎない。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。