第10章は『善悪軸と経済学のバイブル』となっており今まで見てきたいろいろな比較対象を同一軸上に並べてみるというようなことをしている。
『善は報われるか』
- イマヌエル・カント
- 無私、効用があると善ではない
- ストア派
- 報われることを期待してはいけないが効用があってもよい
- キリスト教
- ストア派に近いが、信仰により克服すべき。天国で報われる。
- ヘブライ思想
- 戒律の範囲で日々を楽しむべき
- 功利主義
- 社会の為になれば効用があっても良い
- エピクロス派
- 効用がを基準に善悪を決めた。ただし悪はなるべく少なくする。
- 主流派経済学
- 効用がすべて、善悪は関知しない
- マンデヴィル
- 私悪は社会の為になるとした
今まで検討してきたものが並んでいる。下に来るほど倫理的な面が少なくなる。主流派経済学の位置づけが下から二番目とは、関知しないという立場で良いのか、という動きが最近の経済学者の中には出てきているらしいが。新自由主義の世の中にいると本当に不安だ。
著者は経済こそ倫理的でなければならないと考えている。アダム・スミスから始まる初期の経済学は道徳哲学者であったことを挙げ、どの経済学者くらいからおかしなことになってきたのかを考えている。経済学の教科書は最初は『国富論』で次に来るのがミルの『経済学原理』となるらしい。副題に『その社会哲学への応用』とついているらしい、まだ社会哲学の方がメインという感じがする。1890年にアルフレッド・マーシャルの『経済学原理』がバイブルとなる、マーシャルは倫理の問題に熱心に取り組んだ。続いてジョン・メイナード・ケインズの『雇用・利子・および貨幣の一般理論』が教科書となる。ケインズも倫理的側面を重視していた。次のポール・サミュエルソンの『経済学』から倫理的な面は登場しなくなるという。ケインズの時代まではまだ倫理的な面が機能していたと考えてよいのか。初期の経済学者たちは倫理的な共感があってこそ市場は機能すると主張していたはずなのに。
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