第14章は『真理の探究―科学、神話、信仰』となっている、経済学の本ですよねっという章建てだ。これは前章までさんざん批判してきた経済学の手法が神話の様に信仰されていることを批判したいためだ。
科学的手法という場合、仮説があり証明されて理論として成立してくが、あくまで理論であるということがだんだん忘れられていく。『理論はどれも信念体系(イデオロギー)であり』消して現実そのものという訳ではない。この章では『万有引力』が例とされているが、『相対性理論』が登場するまで問題なく使用されていた。理論というのはあくまで仮説であり『世界を観察する手段にすぎない』『あらゆる理論は役に立つ虚構であり、もっと言えば、神話であり物語である』
経済学の理論やモデルが問題なのは『現実の経済は、理論モデルに影響される』という事。その理論モデルの作られ方はけして合理的なものではなく、『自分の世界観によくマッチする物が選ばれ』ている。この選択の時点でかなり個人の影響が入っており、理論やモデルの材料となるものに社会や歴史や宗教という事柄がはいっていない。『あらゆる人間の行動を単一の原理で説明しようとする現代の経済学』は自然科学的にふるまおうとしてかなり無理をしているように見える。
自然科学の仮定と経済学の仮定でことなることは『仮定は言わば足場として組まれ・・・建設が完了すると撤去される』べきものなのに、経済学では建設後も『仮定を撤去することができない』『仮定を取り去ると建物全体が崩壊しかねない』『経済モデルの大前提であるホモ・エコノミクスという概念を捨てねばならないとなったら、主流派経済学はどうなるだろうか』そもそも経済学のモデルというものは『結論が事実上前提に含まれている』らしい。
著者は『もとからある方法論を一掃し、敢えてまったく新しいやり方で』考える必要性を書いている。よく資本主義以外の社会を想像できないというような話がある一方で、世界中でシステムの変更を訴える若者が抗議活動をしているというニュースを聞く。ここでインスピレーションが理論となっていくことについて書かれている。インスピレーションは日々絶えず閃くが『合理的でないとか他と調和しないと感じて捨ててしまうことが多い』新しい発想をどう論理だてて形にしていくかという事が大変なのだ。このあたりは後の方でくわしく書かれている。
経済学者の予測について、ヘブライ思想のところでも触れられていたが、預言の自己回避性という問題がある。かなりあやしい理論であれ予測が発表されれば実際の世の中に影響を与える。その予測が発表されたことで予測通りにならないことがある。危機が回避できたのならば問題ないが、金融危機がおきるたびに経済学者の予測が外れて大変なことがおきている、それとも予測がなければ金融危機が起きなかったのだろうか?そもそも、経済学者の予測がすべて当たれば『市場は存在しないのではあるまいか』そうなると経済学者の役割とはなんなんだろうか。
ホモ・エコノミクスという理性のみで行動するモデルについて、理性と感情について考察している。『ある種の心の動きは感情と呼ばれ、また別の動きは理性と呼ばれるのはなぜなのか』いちど垣根をとりはらってみると心の動きは『理性と感情からなる単一の連続体』であるという。『ちがいは、反復の度合い、すなわちある感情が実証的あるいは社会的に確認される度合い』により理性と呼ばれることになる。『新しい感情的知覚は、とらえどころのないソフトなものとしてまず認識される。やがて繰り返し社会的に確認されるうちに、合理的な概念として固定される、つまりハード化される』個々で経験されたものは異なっているはずなのに名前を付けられると、抽象概念となり共有できるようになる。感情と理性の2元論は正確ではないのだ。ホモ・エコノミクスという概念はハード面のみとりあつかい、ソフト面を切り捨てているので人間の行動の予測としては不十分なのだ。
ある理論でうまく説明できないということは『エラー』があるということだ。『エラー』から問題点が見つかり新しい理論が生れることもある。なんであれ『結局のところ、モデルは虚構である』ということを『認識しなければならない』ノーベル賞をもらっている人たちがやっていることがこういうものなのかというのはやりきれない気持ちになる。その理論で世の中が動かされていると思うとシステムチェンジもあり得ない事ではないと思えてくる。
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