2021/11/4 善と悪の経済学 トーマス・セドラチェク 東洋経済新聞社

2021年11月5日金曜日

トーマス・セドラチェク 経済学 資本主義 東洋経済新聞社

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善と悪の経済学

ここから第二部となる。これまでは過去から近代まで歴史をたどってきたが、ここからはテーマを決めて横断的に検証される。まずは『強欲の必要性ー欲望の歴史』として一章を設けている。まずはギリシャ神話のパンドラの箱の話と楽園追放の話を取り上げて『人間は必要ないもの、それどころか禁じられているものを消費したがるという、まったく無用の性癖を備えている』としている。両方とも神が仕掛けたことにより『人間が自ら不幸を選ぶように仕向けられた』たしかにそう思う、食べさせたくないんだったらそこにリンゴの木なんか植えとかなければよかったのだ。神が全能であれば人間がリンゴを食べることは折り込み済みのことだったのではと思う、それを罪だといわれても言いがかりのように聞こえる。リンゴを食べるという行為から『最初の罪は(過剰)消費の性格を備えていた』としている。

ギルガメッシュ叙事詩では野獣同然だったエンキドゥが都市に連れて行かれ文明化される。『動物のように暮らしている間は、不満もなければ願望もない』と書かれている。欲望が生れると満たされていないことに不満を感じるようになる。『不満は進化の推進力であり、市場資本主義の原動力であるということもできよう』と書かれている。欲望することは必要だと思うが、どこまで求めてよいのか。『現代の文明は、過去のどの文明よりもゆたかではあるが、満足感すなわち「十分」という感覚からほど遠いという点では・・・さして変わらない』豊かになっても満足できないのは人間の性なのか。

 マルサスの「人口論」は有名だが、人口と生産ではなく、需要と供給の関係が問題とされる。経済学者のマーシャルは人間の欲望や願望は『おおむね抑制されているし、満足させることができる』としていた。著者は『欲望や願望が満たされるとは思えない』と書いている。『消費は本質的に中毒と同じではあるまいか』と言っているが、経済学の根底を覆してしまうのではないか?経済学では願望が充足すれば満足が得られると考えていたが、新たな願望を創出してしまう。これではイタチごっごだ。

この差を埋めるには欲望をおさえるか、満たされるまで供給を続けるか。いままでの人類は供給を満たし続けることで発展を続けてきた。ギリシャのストア派のディオゲネスは持つものが少ないほど自由になれると考えていたが、皆がすべてのものをすてて樽の中で暮らすわけにはいかない。カントは『所有をやめてある時点で満足し楽しむことは、人間本性に反する』と書いたらしい。だからといって『望みうるものを全部望むべきではあるまい』としている。

『アリストテレスは、度を超すことは人間の大きな弱点だと考えていた』ということばを引いて、どうすればちょうどいいところで満足が出来るかということが問題だとする。『満たされているニーズは、富裕層の方が貧困層より少ないはずだが、実際には逆になっている』満たされるとさらに欲しくなるのだ、ほんとうに中毒のようだ。老子の足るを知ると同じだね。もう一つ環境問題的にはそんなことを言ってられない世界だという認識も現在には必要だ。

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