マンデヴィルという人物は一般的にあまり有名ではないが『見えざる手』というアイデアを思い付いた元祖らしい。『マンデヴィルの登場を契機に、悪徳が栄えるほど物質的な繁栄が約束されるという議論がまかり通るようになった』とされている。アダム・スミスはマンデヴィルの説に反対していたのになぜか『見えざる手』の功績を付けられてしまったらしい。今日の経済学では倫理が関心事となっており、『倫理的環境のほうが、経済がうまく機能することが次第に認識されるようになってきた』とある。
マンデヴィルは初めて社会の幸福は利己主義がもたらすべきと論じた人物らしい。過去の事例としてそういうことは今までもあったが、系統立てて論じた人物は初めてだった。その説は韻文で書かれたおとぎ話の呈をとっている点もユニークだった。『蜂の寓話』という作品の内容は繁栄している蜂の社会が舞台となる。『見かけは平和な社会だが、一皮剝けば悪徳が跳梁跋扈している』取引きはいかさまがつきもの、役人は賄賂と汚職まみれ、しかし、全体としては繁栄している。蜂たちは正義の社会をもとめると、蜂の王が願いを聞き届け正直な生き物に変える。悪徳がなくなった社会では需要が減って多くの蜂が職を失なってしまい、大勢の蜂が死に絶えてしまい社会が崩壊するという内容だった。
1714年にこの本が出版され1723年に改訂版が出ると、大騒動になったらしい。いろいろな人物が批判をおこない、裁判所はマンデヴィルの学説を禁止し、フランスでは焚書騒ぎになった。マンデヴィルは社会の偽善を暴くことが目的だったようだが、『悪徳は偉大にして強力な社会と不可分』とまでいう。必要悪ということは必ずあるという事が言いたいのだと思う。競争があれば負ける者は必ずいる、という意味でそれを悪といえば悪なのだろうが、競争がない社会では発展は見込めないということらしい。
マンデヴィルは『利己心、利己主義の原理』を社会を動かす原動力として、利己心が満たされることで社会が発達していくと考えていた。必要悪が社会を発展させるという例はいくらでもあるし、トマス・アクィナスの『あらゆる悪を防いだなら、多くの善は宇宙に存在しないだろう』という言葉もあった。マンデヴィルがこの言葉を『引用していたら、あの寓話が引き起こしていた批判の大半は免れていた』と著者は書いている。
利己心というのは満足しないものなのだろうか?資源は有限なのに『新たな需要をつぎつぎと作り出し』利己心をあおっていかなければ、その社会は終焉を迎えてしまうのか?というようなことを著者は書いている。なんにせよ気候危機の時代には通用しない説だ。
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