2021/11/5 善と悪の経済学 トーマス・セドラチェク 東洋経済新聞社

2021年11月6日土曜日

トーマス・セドラチェク 経済学 資本主義 東洋経済新聞社

t f B! P L

善と悪の経済学

第9章は『進歩、ニューアダム、安息日の経済学』というタイトルになっている。宗教から科学へと信仰の対象がかわった時に、価値観の変更もあった。進歩が良いこととなったことで、経済では成長が良いこととされるようになった。科学の進歩と文明の発展は切り離せない関係となり、経済では成長を維持するためにすすんで借金をするようになった。『いまや成長は強迫観念と化しており、何のための成長なのかわからないままに、ひたすら加速して不足を埋め合わせようとしている』ここでの不足というのは満足の不足のことか。

ニューアダムというのはケインズが著した本に出てくるあたらしい人類の事である。前章にもあったが、経済学者の中にはある程度欲望が充足されると人間の欲望はおさえられるという考えの一派がある。デイヴィッド・ヒュームは欲望が充足されれば『ありとあらゆる徳が花開くにちがいない』としている、ジョン・スチュアート・ミルも『誰もそれ以上の富を望まない』定常状態になると考えていた。そしてケインズは『地上の楽園が実現する』と考えており、『倫理の考え方が大きく変わるだろう。・・・貪欲は悪徳であり、高利は悪であり、金銭欲は憎むべき』という様に変化すると考えていた。これが条件付きであるが100年以内に達成できるとしていた。

成長信仰は経済学者により広められたが、マルクス・レーニン主義も科学性を重要視していたことを指摘している。民族差別主義者も当時の科学的根拠を利用して虐待がなされている。著者は科学的とされることを実行したことについての結果が血なまぐさい世紀となった結果について考えるべきだという。科学的なことがすべて善であるとはかぎらない。

経済学にとって『進歩は両刃の剣』という。成長とともに満足度が高まったとは言えないのは人間の性か、という話は前章で書かれていた。しかし、そもそも経済学は満足が望ましいとは考えていないという。経済学で扱うのは満足を求めている人間が儲けを増やしたがっている状況であって『それ以外は想像もつかない』経済学は『希少資源の分配』についての学問とされているが、資源が豊富になったらどうするのか?富豪たちの幸福度を調査した結果『平均をごくわずかに上回る程度』であるという。幸福度が消費の多寡ではないとすれば、何のための成長なのか。目的もなく走り続けてもどこにもたどり着けない。ゴールのない成長のためにひたすら働き続ける。

不足しているのは『不足』ではないかという。エンターテイメント産業が提供しているのは疑似的な不足なのではないかという。『人間は存在論的に退屈』というヤン・パトチカの言葉を紹介している。退屈は『熱狂と興奮の中にすべてを解放するお祭り騒ぎを要求する』とも書かれている。まったくどこが合理的存在か。

アリストテレスは『人間は持てるもので満足しなければならない、幸福はそこに存在する』という結論に達しているという。これを成し遂げるために必要なのは禁欲主義ではなく、安息日の考え方ではないかという。安息日は十戒の中でもっとも頻繁に破られていた戒律であるという。これが掟となっているのは『人間の本性には働き続けたがる傾向』がある為ではないかという。現代においても技術の進歩で効率が良くなり時間の節約になっているはずなのに休息が増えるわけではない。『正確には、私たちは自分に休息を与えようとはしない』たしかにその通りだが日々働かなければ食っていけないものはどうしたらよいのか?と思う。つくづくシステムの問題なのだなぁ。


QooQ