第一講の最後に『はしがき』があるが、これはケインズが書いた『はしがき』で最初にあった宇沢氏が書いた『はしがき』ではない。この中でケインズは『一般理論』について説明をしている。この本は『同僚の経済学者にむけて書かれた』ものであるので、抽象的な話が多くなっているし、十分に整理されたものではないとしている。『古典派』では1930年代の大恐慌が説明できず、ケインズの経済学で乗り越えることができた。その為に書かれた本なのだという。
『一般理論』と名付けたのはそれまでの経済学理論に対する批判が込められているという。『古典派』の経済学では前提条件が特殊な状況を想定していて、通常の状態を説明できないとしている。このあたりはセドラチェク氏の本でも書かれていたことだ。
ここまで従来の経済学について『正統派』や『古典派』と書かれていているが、呼び方が統一されていないので少し混乱する。ケインズは『古典派』を、リカード以前の経済学者から『リカード経済学を発展完成させた人々』と定義している。宇沢氏は『新古典派』と呼ぶのが当世風だろうとしている。
-第二講からさっそく『雇用』についての話が始まる。『古典派』では前提として『完全雇用』という状態を想定しているが、現実には失業している人が存在している。これは市場の機能がうまく働いていない為だというのが『古典派』の考え方で、純粋に市場の機能が働けば賃金が下がり雇用をしようという資本家が増えるということだろうか。
しかし、人ばかり増やしても生産量が比例して増えるというわけではない。丁度良いサイズというものがある。このあたりグラフがたくさん出てくる。どうしてこういう線が引かれるのかはよくわからないが、 そういうものだろうというのはなんとなくわかる。
このときの生産物の価格と賃金が直接影響を及ぼさないという事が仮定されているらしい。そんなことがあるか、という感じだが市場が不完全競争的であるため、無関係というわけにはいかなくなるという理屈なのだが、ではなぜそのような想定があるのかと思う。ともかくそういう状態で価格が変わったりすると、調整は雇用者の数で行なうという事になっているという。それで解雇された人はすぐに他の分野で必要とされて、そちらで働くということが前提条件となっているという。そんな簡単なものではないだろう。このあたりの話が第一公準というらしい。読んでいて思うのは労働者ってのはつくづく道具ってことになっているなぁ。
歴史的には大恐慌の際にフーバー大統領は極力市場への介入を少なくする政策をとり、イギリスでも政府が大規模公共投資を行なうのはよくないという見解だったという。すべて『古典派』の理論に基づいてとられた政策だ。これは当然うまくいかず、ニューディール政策のほうが正解だった訳だ。
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