環境問題に関して、なぜ社会は判断を間違えるのかを見てきた。結局なにが正解かは後からでないとわからないのだが、理性的な判断を狂わせる事例がたくさん並べられていた。
このあと大企業と環境について例を挙げて考察されている。さぞ企業のひどい例が出てくるのだろうと思っていると、ものすごくうまくいっている例が取り上げられていて驚いた。シェブロンという石油メジャーがやっている施設なのだが、他の場所よりも自然が残されていたという。賢い法人は環境破壊をするような経営をすると何が起きるのか、後からどれだけ費用が掛かるのかを過去の事例から学んでいる。もちろん地元住民の声がつよく、対立すると何が起きるかわからないというような土地柄もあるのだろう。だから声をあげることは必要なのだ。
ところが鉱山の企業ではうまくいかないことが多いらしい。ひどいところだと鉱石を掘りつくして、環境汚染を残したまま計画倒産してしまうという例があったらしい。技術的なことも石油と違いクリーンに採掘することが難しいものなのだそうだ。今でもたくさんの鉱山が環境負荷が高い経営をおこなっているという。
ところが大手石油メジャーが経営者となっている鉱山では比較的クリーンに経営しているところがあるという。クリーンな採掘は技術的な問題ではなく、費用がかさむということらしい。鉱物の値段に上乗せするべきところが、買いたたかれて出来ないのだという。
以前から思っていたことだが、第一次産業という分野では生産者が値段を決めるべきではないだろうか?値段を市場に任せているから生産しても赤字というようなことが起きるのだ。生産者が立ち行かなくなるような仕組みではゆくゆく困るのは自分たちなのだ。最低限これくらいはもらわないと、環境に配慮した採掘は出来ないという価格ラインは倫理的に守らねばならないとしなければ安心して暮らして行くことができない。生産者があまりに法外な値段をつければ誰も買わないだろうし。特に鉱物では環境被害が出てもその鉱物が何の製品に使われているかわからないので不買運動も出来ないし抗議のしようが無い、結局鉱山がある地元の問題となってしまうので抗議する声としては限定されてしまう。
企業の努力で環境が汚染されない例もとり上げられているが、その原動力となっているのは非難や運動の結果である。こういうことをすれば後でえらい目に合うという学習が出来ている企業は対策を怠らない。では非難されなければ対応も変わってくるのだろうか?
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