2021/12/4 昨日までの世界 文明の源流と人類の未来 上 ジャレド・ダイアモンド 日経ビジネス人文庫

2021年12月5日日曜日

ジャレド・ダイアモンド 社会学 日経ビジネス人文庫

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昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来

第一部は『空間を分割し、舞台を設定する』と題して境界について考えている。現代では国境を超えることは手続きさえ踏めば難しい事ではない。しかし、移動の自由が確保されたのは近代に入ってからであって、それまでの社会では一般庶民には許されることではなかった。

では、伝統的な社会ではどうだったのか。もっとも素朴な小規模血縁集団では境界があいまいであることが多いようだ。だが、あいまいだからと言って知り合いのいない他の集団の村に入っていくことは命取りとなることもあるらしい。他の村に親類縁者がいる場合は問題ないが、そうでなければ襲われて殺されてしまうこともありうるという。近隣の村どうしでは知らない顔は無く、あらかじめ許可を得ておけば他の村のエリアで獲物を獲っても問題ないらしい。

さらに大きな部族社会となると境界がはっきりしてきて、物見やぐらを立て常時監視しているという例もあるらしい。これは集団が大きくなり、食料の余剰が見張り役を食わせていけるだけの余裕がある社会だけができることであるという。部族同士では同盟があったり、敵対していたり、休戦期間だったりと状況によって異なるという。部族社会でも守るべき資源がない土地であればそれほど神経質にならないという傾向もあるようだ。

共通しているのは『友人、敵、見知らぬ他人』という分類で判断されて、それぞれ対応が変わるという。ここで友人というのは顔見知りというていどのものなので、いわゆる友人という概念は当たらないと思われる。著者がニューギニアでショックを受けた話が紹介されている。『人間の普遍的な思考様式だと思い込んでいたものが、じつは間違っていた』現代の友情のようなものは現代社会に必要とされてうまれたものであるらしい。『市場経済が発達した社会では、見知らぬ他人は・・・潜在的価値を秘めた人間とみなされる』ちょっとこの見識はさみしいような気がする。

境界と他者についての部分を読んでいると、原初から人間の社会は他者を恐れて暮らしており、所属集団が大きくなるほど、他の集団に対する反応が過激になっていくように思える。個人が認識する世界は、自身の集団の領域と近隣の集団についてしかないという時代が、地域にもよるが、長いこと続いてきていた。友人ってなんだろうねとも思うが、所属する集団が無くなってしまった個人主義の社会ということの深刻さも思う。マイルドヤンキーが地元愛でつながっているとか、家族2.0とかいわれているが、今後どのようなコミュニティが発生し適応していくのだろうか?

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