キリスト教の残りの部分、中世以降のうごきについてはアウグスティヌスとトマス・アクィナスの思想を紹介している。この二人はギリシャ編のプラトンとアリストテレスの関係のような感じだ。アリストテレスの本は『バラの名前』でも危険思想扱いだったのを思い出した。経済学的な部分としてはトマス・アクィナスが現実志向に舵をきったことで、いろいろ読み取れる部分がでてくるが、この本のテーマとしては善悪という部分が大きなテーマとなる。『市場の見えざる手』という事について悪が利益になり、善が悪に転換されるということを指しているとしている。トマス・アクィナスは悪の存在について神の意志ととらえる見方をとっている。善悪という倫理基準が存在するためには自由が存在しなければならないとして、悪をこの世から消し去ることはできないとしている。このあたりは深いなぁと思った。
人間の本性を善とみるか悪とみるかで対策もかわってくる。その辺りの考え方の違いが学派によってアプローチの取り方が違う結果となっている。トマス・アクィナスは本性として人間が社会生活を営む、すべての人が仲間であり、友であるとしている。性善説的なアプローチだ。ただしその社会については治める人物が必要だろうとしていることを受けて、著者は『独裁者も中央計画の立案者も必要とはしていないが、監督し統治し舵取りをする者は必要とする』『したがって経済学に備わっていなければならないのは・・・操舵術である』と書いている。
『イエスの比喩の大半は、経済の言葉あるいは経済の文脈で語られる』という指摘が面白かった。『キリスト教の基本的なメッセージは、経済用語を使って解釈すれば現代人にはずっと理解しやすくなるだろう』という指摘をしている。また、善悪という事に関してはイエスは天国を設定したことで『現世における神の正義(またはその欠如)の問題を解決』したとしているが、のちの歴史の事を考えると免罪符があったり、決定論があったりとこれはこれでどうなんだろうと思う。
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