次はキリスト教から経済学を読みとる。キリスト教が導入した来世の概念が善の見返りという問題を解決している。ユダヤ教では善い行いをしても報われない場合の解決策は行い自体が喜びであるという答えだった。キリスト教の来世での救済というのは『最大化の法則を逆転させた』としている。そもそも、キリスト教の言葉は経済の言葉で語られているという。「罪」という言葉は「debt」は「負い目」「債務」という意味が強いようだ、キリスト教的にはすべての人は宗教的な債務を負っているという感じで、イエスの犠牲で債務が帳消しになったという感じらしい。キリスト教は信者を救済するが、現代では銀行や大企業などが債務の帳消しをされた記憶がある。
ここで少し贈与の話になる。キリスト教の救済は神からの贈り物であり、対価があるものではないとしている。信仰は対価ではないのかと思うが、神様からすると信仰があることで何か良いことがあるのだろうか?贈与の特徴は値段が無いこと、送るものの値段を隠したがること、これは値段が付くことで価値が下がるからとしている。ちょっとこのあたりはうまく言葉にできない。善意から行なったことに対してお金を払われると微妙な感じになるのと同じような理屈だと思う。
有名なゲーム理論の回答についてイエスが出した答えが『右の頬を・・・』の逸話。イエスの言うとおりにすれば「囚人のジレンマ」も解決する。やられたらやり返すというのが最善手と思われていた「囚人のジレンマ」も最近の研究ではより親切にすることの方が効果的という結果がでているという。どうもゲーム理の実験結果についてはいろいろ眉唾なものが多いという話も聞いている。なんだか研究者が人間について悲観的な結果を出したがっていたのかもしれない。あるいは経済学の「合理的な人間」像が影響しているのかもしれない。
善行はあの世で必ず報われるという教義から、前期のキリスト教文化では現世と距離を置く考え方が主流だった。この世はサタンが支配する場所とまで考えられていたので、この世ではかならずしも良いものが救済されるとは限らない。しかし、悪もまた神の創造物であると考えるので、悪が無くては善もないという立場だった。むしろ、人間が判断する善悪などの基準を否定し、ただ愛せという教えになっている。これは善悪の実を食べたアダムとイブが善悪を判断できるようになったことがなぜ罪なのかという事柄につながるのだと思う。
労働について、ギリシャ人は労働を厭う傾向があった、ユダヤ人は労働は神の創造した世界を完成させるという目的が課せられていた。キリスト教は『働きたくないものは、食べてはならない』といっている。ギリシャにもユダヤにもかつての労働は喜びであったが、それぞれあるきっかけで苦痛となったという神話がある。経済学では労働は不効用で消費が効用というとらえ方をしているが、労働は不効用だけなのかと著者は疑問を投げかけている。達成感や人生の目標の一部となっている事柄に意義があるのはたしかだ。
私有財産について『キリスト教は私有財産制を疑った。それでもトマス・アクィナスは、私有財産制は社会の平穏と秩序によい影響をもたらし、人々の意欲を良い方向に刺激する』初期のキリスト教は疑っていたが、トマス・アクィナスのあとから軌道修正されたという。 初期のキリスト教徒のコミュニティでは共有財産制で運営されていた、これはあくまで小さなコミュニティ内での話で社会全体に広まってからは困窮者へのセーフティーネットとしての機能が残された。私有財産についての考え方は古典派経済学の時代にも引き継がれていた。ロックもミルも『人の命がかかっているときには、私有財産制は無視される』という意見だった。ユダヤ教の時代から落穂を残すなどのセーフティーネットの考え方はあった、キリスト教ではさらに必要としないものは施し物として与えるべきだとしている。『効用の最大化』は逆転されているので財産をたんまり持っていることは褒められなくなる。キリスト教が当時はどれだけラディカルだったのか少しわかった。
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