2021/10/29 善と悪の経済学 トーマス・セドラチェク 東洋経済新聞社

2021年10月29日金曜日

トーマス・セドラチェク 経済学 資本主義 東洋経済新聞社

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善と悪の経済学

プラトンの後はアリストテレス。アリストテレスは『綿密な体系的研究を行なった最初の学者の一人』という評価だ、『おそらくは最初の科学者でもあった』としている。プラトンは師匠だが考え方が違う為議論もあったようだ。だが当時はプラトンのような考え方が主流でアテネ市民はアリストテレスの言っていることが『不自然』であるとして攻撃されたりしたようだ、もっと高尚なことを話題にせよと要求された。しかし、現実的な内容の話題も後には理解され『きわめて尊敬に値する能力』とされた。合理性というものは最初は理解されなかったらしい、現代から見るとプラトンの言っていることの方がよほどおかしく見える。

『多くの経済思想史の教科書は、アリストテレスから始まる』とあるが、クセノポンはあまり取り上げられないのね。ここではあまり取り上げられていないという『効用の役割とその最大化』について取り上げている。経済学で効用の最大化をするよう勧めるのは幸福になるためとすると、『人は自然的に幸福になるのか、・・・幸福が一種の学問であるかのように学ぶことによるのか』をアリストテレスは考察している。効用=快楽として、ある行動が快楽を伴っているからと言ってそれが善であるとは限らない、目的は善であって快楽は付属物であるとアリストテレスはしている。『今日では効用の最大化がしばしば自動的に人間本性と考えられていることに、アリストテレスならきっと抗議するだろう』と書かれている。このあたりに経済学が抱えている問題があるのだろう。何のためにその行動をするのかという事の方が大事で、その行動をすることでどれくらいの効用があるかという事は二の次なのだということだ。

アリストテレスは効用が悪いことという事とはしていない、効用も善の一部であるとしている。『悪は制限のないところに属す』『善は制限のあるところに属す・・・よってこの理由から、過剰と不足は悪の、中庸が徳の特徴となる』としている。『効用の最大化ではなく節度 』というのがアリストテレスの答えであり、『いかなる犠牲を払ってでも最大化をめざすことではない』としている。このあたりのことを話題にしたかったのだろう。

アリストテレスの後の時代のストア派とエピクロス派の対立について書かれている。これについてはアダム・スミスの『道徳感情論』内の部分から紹介している。

ストア派は善と効用について『いかなる関係も認めていない』行為の結果よりも倫理規範を遵守したかということが重要。『倫理に悖る行為をした人は成功してもほとんど満足を得られない』としているが倫理が廃れた世の中では通用しないように思う。

エピクロス派は行為の結果に効用があれば善であるとしている。善や倫理は『あらかじめ決められた外的なもの』でしばられる事は無いという。だからといって目先の快楽を追求するという訳ではなく『長期的な目標に適うよう律すべき』という立場だった。現代の経済学と異なるのは友情を認めていた、利己主義以外の行動原理もある。逆に現代の経済学ではそういうものを認めていないのだなぁ。エピクロス派からすると善は相対的なものでより効用が大きい方がより良いということになるらしい。これってポストモダン?

アダム・スミスは自身は『ストア派』を自任していた。効用の話とかから考えるとエピクロス派のような感じもあるが『道徳感情論』のなかで『私が説いてきたものとは相容れない』と書いている。アダム・スミスを経済学の始祖としているが、現代の経済学はまったく反対という観で『皮肉と言わざるを得ない』と指摘している。

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