いよいよプラトンの登場、ソクラテスはプラトンの中で時々語られるくらいだった。ここでちょっと著者の指摘が面白かったので脱線。映画『マトリックス』の中で預言者オラクルに会いに行くシーンで台所に掲げられていた額に書かれていた『汝自身を知れ』という言葉は、デルポイのアポロン神殿の入り口に刻まれていた言葉と紹介していた。なんか東洋っぽい言葉だなと思って見ていた記憶があるが、バッチリ西洋の伝統をおさえていたんだなぁ。『汝自身を知れ』はソクラテスの十八番だった訳だし。
プラトンと言えば『イデア』。それまでのギリシャの伝統的思考として「理想の世界が何処かにある派」が代々続いてきていて、ソクラテスもその流れに入っていた。それを弟子のプラトンが昇華させ完成させたという感がある。どうも自分はプラトンは苦手なのであまり感心するところが無いのだが、経済学と関係がある部分としては神話型のモデルという部分であるという。ホモ・エコノミクスも、完全な合理性も、市場の見えざる手も『つまるところこれらは、経済学共鳴する物語であり、信仰であり、神話なのである』としている。経済学が前提としているものはイデアなんだなぁ。
この経済学のモデルに対して『自分たちのモデルを本当に信じているのか。』という問いを立てている。本当であるとすれば人間は合理的で、自分のことしか考えないエゴイストで、市場は自ずと均衡するし、見えざる手は存在するという事になる。信じていないならば『そのモデルがどれほど有用であろうと、それに基づいて人間を語ることはできない』ということになる。いったい経済学はどうなっているんだろう?
プラトンはイデアを求めるためには肉体は邪魔ものだと考えていた、悪の源は肉体にあると思っていたらしい。イデアを知覚するためには肉体の欲求を断って精神のみの状態であることが望ましいという。この考えはキリスト教につながっていくのだが、プラトンの師匠のソクラテスは美少年のアルキビアデスとの同性愛を抑制できず苦悩していたらしい。『ギリシア人の物語Ⅱ』の中にもアルキビアデスのところでソクラテスとのやり取りが紹介されていたなぁ。経済学的には肉体の欲求を断つという事は需要のサイドを切り捨てているということになる。需要が無ければ供給も減らせるので、労働も少なくできる。プラトンは労働も肉体を使う邪魔なことだととらえていたらしい。
プラトンの考える国家は三つの階級からなり『第一階級は理性を代表する支配者、第二階級は勇気を体現する軍人、第三階級は肉体感覚を代表する生産者』で『支配階級は、私有財産や、自己利益を知らない』としている。この設定はジョージ・オーウェルの『1984』と同じだそうで、『財産だの家族だのといった日常の煩わしいことは、労働階級にのみふさわしい』としている。読んでいてこれはインドの階級のような感じかとも思ったが、バラモンは階級は一番上だが支配者にはならず、武人が王となっていた。
これは哲学というより宗教にでもしないと難しいだろう、というようなことを考えているプラトンは、一般に社会の進歩と考えられるような事柄も衰退、退化ととらえてしまう。いちばんいいのは無垢な状態であるということになり、『至福の無知』という状態が良いとしていた。自分は奴隷に働かせて何を言っているのかという感じである、バラモンのように野山に入って修行すればいいでしょと思う。やはりどうも好きになれない。欲も得もないのではあまり経済的な話は出てこない。
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