2021/10/20 善と悪の経済学 トーマス・セドラチェク 東洋経済新聞社

2021年10月20日水曜日

トーマス・セドラチェク 経済学 資本主義 東洋経済新聞社

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善と悪の経済学

ギルガメッシュに対して神様が送り込んだのがエンキドゥなのだが、どのように対抗したのかというと野獣として都市の外で暴れまわるということだった。神様もまわりくどいことをする。王様のギルガメッシュとしては、外で危険な野獣が暴れていては人民が安心して仕事が出来ないので討伐するしかない。しかし、神様が創造した野獣人とは勝負がつかないので一計を案じる。エンキドゥを都市に呼出し都市の生活に慣れさせることで、力をそいでしまう。ギルガメッシュの方は人民をロボット化してどんなに壮大な城壁を築いても満たされない。これは人間が『満足を知らない不安定な傾向を祖先から受け継いでいる』からであると著者は指摘している。周りをロボット化してしまうようなやり方はさぞかし『虚無感』がある立場だろう。しかし、人化したエンキドゥと友情を結ぶことで虚無感を打ち砕く事が出来た。ここで友情について『生物学的には最も弱い愛』と著者は規定している。たしかに遺伝子とか関係ないもの同士が協力し合うことは生物学的な理解の外にあると思う。となると友情こそが人間的なものなのかもしれない。しかし、著者が書いているように『真の友は真の友にすべてを与える』というような友情がその辺に転がっているとも思えず、これはこれで難しいと思う。

さらにケインズのアニマルスピリットについて言及される。人々を都市に住まわせ文明化するという合理的な仕事を放棄させることは、『不経済かつ不合理な冒険に駆り立てる精神』をアニマルスピリットのなせる業としている。エンキドゥとの友情や冒険がアニマルスピリットということであれば人間らしいこともアニマルスピリットということになる。そうなると経済学が規定している「ホモ・エコノミクス」とはだいぶかけ離れている。

都市の建設から分業と富の蓄積が始まっていることも読み取れる。分業するようになることで都市の構成員同士の依存度が高まり、自然への依存度が下がる。誰かが作った服を着て、誰かが作ったパンを食べるということは、アダム・スミスが論じるよりもはるか昔から行われていたと指摘している。ただ、アダム・スミスが指摘したのはもっと細かいところだと思うのだが、服を作るにしても糸を作る人、ボタンを作る人、織る人、縫う人、というような分業のことだと思うが、それもこの紀元前の頃から分業していたのだろうか。

あとは自然観についての考察が面白かった。ギルガメッシュの治めるシュメールでは自然は悪であり、文明は善となっているが、のちのヘブライ人からすると都市は悪で、自然が善ということが旧約聖書などから読み取れるという。ここで設問『人間は、自然状態のほうが自然でいられるのか、都市文明の枠組みの中にあるときのほうが自然なのか』『人間は生まれながらにして善なのか、悪なのか』

冒険の途中でエンキドゥを失い、失意の中でギルガメッシュは永遠の命を得ようと冒険を続けるが、あと一歩のところで失敗する。その冒険の途中、死を受け入れ現世の快楽を楽しむよう諭されるシーンでは経済学の『効用の最大化』を読み取る。現代の経済学では『効用の最大化』こそが人間生来の本質だという規定だが、ギルガメッシュはこれを拒絶する。『効用の最大化』という概念が主流となるのはギルガメッシュの時代から4500年後となる。そもそも『効用の最大化』という事であれば冒険には行かないだろうし、名前も残らなかっただろう。

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