ペロポネソス戦役の序盤で疫病が大流行したアテネでは、前年の戦いで家を失った難民が流入していたため感染者が多くなったこともあるようだ。国際都市となって人の行き来が多かったのだからこういうことも起きるのだろう。人々の不満が高まりペリクレスに向かう。市民集会でペリクレスの演説を聞いていったんは市民も納得するが、すぐに不満が溜まりペリクレスのいない集会で解任が議決されてしまう。さらに公金横領の罪までかけられてしまう。すぐに翌年の選挙でペリクレスは再選されるが、病に倒れてしまう。著者曰く『公金悪用、つまり国政を誤ったとする告発が、彼の誇りを深く傷つけたからではないか』としている。疫病で亡くなったとする説もあるが、著者はその説を採っていない。
紀元前429年秋にペリクレスは亡くなる。享年66歳。アテネ市民は特に感慨もなく受け止めたようだ。後に歴史家のツキディデスが『ギリシア全体にとっての終わりの始まり』と書いているが、この時はまだ29歳で歴史も書かれ始めていない。この年にペリクレスの友人だったソフォクレスの作『オイディプス王』が上演されたらしい。著者は『オイディプス王』の内容が運命には抗えないとしていることが、ペリクレスがアテネの繁栄を確固としたものにするために費やした生涯が、ペロポネソス戦役のさなかに終わるという運命と重ね合わせている。ペリクレスが亡くなった後、アテネは衆愚政の時代に入り衰退へと向かう。
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