2021/7/20 「事件! 哲学とは何か スラヴォイ・ジジェク 河出書房新社」

2021年7月20日火曜日

ジジェク 河出書房新社 哲学

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 『第六の駅 事件の取り消し』ロッシーニの活動期が1815年から30年である理由は無垢な市民革命前の時代をよみがえらせようとしたからという指摘。たしかに1815年はナポレオンが破れウィーン体制が確立された年で1830年といえばフランスで7月革命が起きた年である。なかったことにする試みは15年でついえた。ロッシーニは『1815年までの年月がなかったかのように作曲した』なかったかのようにというところがこの章のポイントだろう。

ウィーン体制は崩壊したが、日常から無かったかのようにすり替えられていくことに注意が必要という事がいいたいらしい。現在のハンガリーが中国よりの態度をとっていることの皮肉や、ゼロ・ダーク・サーティという映画の拷問シーンについての言及がある。拷問を『高められた尋問技術』と言い換えることで正しいことにすり替わっていく。こういったことを繰り返し『道徳的真空』に近づいていくという。

インドネシアで1965年頃おきた虐殺についての映画『アクト・オブ・キリング』では虐殺している兵士はハリウッドの映画の中で行われていたシーンを真似して虐殺をすることで正気をたもっていたらしい。これも前章で出てきた思考停止の一例だろう。

事態への対策の『出発点とすべきは、伝統的な倫理的構造の「象徴的効能」を突き崩すことで、このような道徳的真空を作り出す、グローバル資本主義の破壊力である。』と指摘している。道徳が荒廃してなにが起きるかということを論理的に説明している個所だと思う。

ここでヘーゲルの『精神現象学』が出てくる。『精神的な動物の国』の部分が近代社会の描写として出てくるが、動物性への反転の部分が難しい。自己中心的にふるまう個人が集まって市場が調整機能を果たすことで社会が回っていくという時、自己中心的な人間は動物的だという反転があるという事で良いのだろうか?

人間は自己中心的だという前提で物事が進んでいくとどのようになるかという例として、中国で実際に起きた事件を例に挙げている。親切をしたものがかえって訴えられるというものだ。この分析として公共空間というものがどんどん少なくなっているという話になる。監視カメラの前では親切にするが、カメラが無ければ親切にしないということらしい。カメラがあるところのみが公共空間なのだ。

動物化していることについては社会的なネットワークが生み出した逆説であり、動物化はなるべくしてなっている。ということは親切とか公共心のようなものは過去のネットワーク化されていない社会では必要だったが、現代では必要ないという事なのだろうか?

そして、個人情報の侵害などネットワーク化が進むにつれて私的空間がなくなっているといわれているが、ジジェク氏に言わせると『本来の公共空間』が侵害されているのだという。

『終着駅ー「Nota Bene!(注意しろ!)』事件が取り消されるという事態に対して新たな局面が生れるのだろうか?『ここ数年、われわれはずっと事件前夜のような状況下にあるが、目に見えない壁が真の〈事件〉の発生を』阻止しているかのようだ。このような閉塞感をジジェク氏も感じている。そして、その一因は資本主義のイデオロギー的勝利としている。近年労働者は資本家にさせられてしまった、自己の起業家としてふるまわなければならない羽目になり、かえって以前の資本主義者と労働者の関係に戻されてしまったかのようだ。このあたりのこともすり替えと言えるのではないか、結局奴隷に逆戻りだ。

対策として『おそらくわれわれはまず〈大覚醒〉の神話をきっぱりと捨てなくてはならない。』〈大覚醒〉とは労働者の連帯が力を結集し決定的な介入をすることとしているが、革命とかそういうことだろうか?どうもこの方法では過程で目的が変化していくという事になり対策にならないようだ。フランス革命や共産主義革命のことが念頭にあるのだろう。

分裂は必要であり、安易に雑多な勢力間での妥協では解決できないとしている。方策として『社会的・イデオロギー的関係に介入することであり、当然ながら何も誰も破壊することなしに、象徴的領野全体を変革することである』としている。そして最後に『ストレッラ』という映画を例に方策としてあげている。どんだけ映画を見ているのかねぇ。

2015年に書かれたこの本の最後の言葉は『気を付けろ!』となっている。まとめたおかげで少しはジジェク氏の言いたいことがわかった気がする。読了。

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