
ペイシストラトスの後はクレイステネスが登場。はじめのうちはペイシストラトスの息子が牛耳っていたが、テーベとの戦争を機に体制が揺らぎ始め、スパルタを味方につけたクレイステネスが勝った。
だが、スパルタは反アテネでペロポネソス同盟まで作っているのだから、アテネをそのままにしておくわけがない。アテネの民主政を覆そうとするがアテネ市民の暴動がおきてスパルタ兵は撤退する。こんなことがあった後ではスパルタを引き込んだクレイステネスをアテネ市民がゆるすはずはないと思うのだが、勝利のあとクレイステネスも追放されかかったので許されたのかもしれない。
クレイステネスは交易で財をなした名門出身だった。名門出身者がおこなった改革で出身階級が損をするのも顧みずなされたということで評価が高いのかもしれない。しかし、近視眼的な視点では損かもしれないが、最終的にアテネの繁栄が利益になるという視点で考えられる人物だったのだろう。
改革の内容は都市部、沿岸部、内陸部と分かれていた行政区を分割して再構成しなおした。さらに同時に戸籍をつくり市民の数を把握した。これでペロポネソス同盟を率いるスパルタに対抗するために兵力増強をはかることが出来た。
さらに行政区と書いているが当時の言い方では部族という意味合いになるものでもあったので、アテネ人は人工的に部族を再編成したことになる。部族ごとに1名行政官を出す方法にしたので資産にかかわりなく行政官になるチャンスがあるという事になる。この改革でさらに民主的になった。
さらに国家公務員も部族から抽選で選ばれるように変更した。公務員を人気1年でしかも抽選で選ばれるようにしていろいろ障りは無かったのだろうか?
クレイステネスは陶片追放の制度も制定しているが、彼の時代には追放になった事例はなかった。
民主政は他の都市でも実施されていたが、確立できなかったようだ。その理由として『健全な中産階級』が確立できたことが大きいと指摘される。クレイステネスの改革により社会格差が縮小できたことが大きいのだろう。
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